吉野大作さん〜「情念のフェスティバル♯3」


昨年の12月10日、横浜の「7th Avenue/セブンス・アべニュー」で
「情念のフェスティバル♯3」と題されたライヴ・イベントがあり、
久しぶりに関内まで行くことになった。
このライヴ情報はそこに出演された吉野大作さんからいただいたもの。

吉野大作さん……? 何か違う。
「さん」付けで呼んだことがないので、どうもしっくりこない。
やっぱり「吉野先生」と呼んだ方がピンとくる。
今までも、そしてこれからも私の「先生」であることに
変わりはないのだから。

吉野先生と出会ったのは私が18歳の時だ。
18歳・・・何て素敵な響きだろう。
現在の自分の歳を考えるとなおさら美しく響いてくる。
あの頃は、大好きな音楽を聴くゆとりさえなく、
毎日受験勉強に明け暮れていた。
そうした中、通っていたK塾で吉野先生と出会ったのだ。
当時塾のクラスが同じで仲が良かったKちゃんやAちゃんとは
今でも交流がある。
苦楽を共にし、励まし合った仲だからこそ、
あの時築いた友情はこれからも大切にしたいと思う。

「授業がわかりやすくておもしろい」という吉野先生の噂を、
最初に聞きつけて私達に教えてくれたのはKちゃんだった。
それから数ヶ月後、私達は晴れて吉野先生の漢文を
受講することになったのだ。
まさか先生が二足のわらじを履くロック・アーティストだった
なんてその時は知る由もなかった。

先生を初めて見た時、シャイでナイーヴな印象を受けたが、
その雰囲気と話題のミスマッチが妙におもしろくて
「この人はいったい何者?」という好奇心が私達の心に自然と芽生え、
「大学にうかったらあの先生も呼ぼうね」
と密かに先生を交えた飲み会まで計画したほどだ。
腹を抱えて笑うことも度々あり、先生のトークは我々受験生にとって
一服の清涼剤となった。

私が老荘思想や白居易の詩に興味を抱くように
なったのも先生の影響である。
先生は漢文だけではなく古文や現代文にも精通していて、
どんな質問をしても的確に答えてくれた。

それは音楽に関しても同じことで、いつだったかあるライヴハウスの
モニターにオーティス・レディングのライヴ映像が流れていて、
となりで弾いているベーシストの名前を私が忘れていたら
すぐ教えてくれたことがある。

先生の音楽遍歴だが、好んで聴いてきたジャンルは、
フォーク(60年代のアメリカン・フォーク)、
ロック(60年代のブリティッシュやアメリカもの)、R&B(60年代サウンド)
ブルース(エレクトリック系から入ったけれどアコースティック系もわりと聴いた)
日本のグループ・サウンズ(ファズ系のギター・サウンドが好み) 
URC系のフォーク&ロック全般、エレキ歌謡曲などだそうで、
特に日本のGSにはかなり思い入れがあるようだ。

ちなみに好きなアーティストは、洋楽ではビートルズ、ザ・バンド、
二ール・ヤング、エリック・クラプトン、ジミ・ヘンドリクス、
フランク・ザッパ、ボブ・ディラン、P.P.Mなどで、
邦楽ではジャックス、スパイダース、ゴールデン・カップス、
URCレコードのミュージシャンたちという回答をいただいた。

今、先生にとって一番関心があるものは「歌」らしい。
「言葉があり、旋律があり、そこにリズムがあるもの…
したがって、昔ほどジャズは聴かなくなっています。
心に訴える歌詞があって、そこにギターが絡んでくる音楽が
多分一番よく聴くものでしょうね。
最近、聴くのは九割がアナログ・レコードです。」と
おっしゃっている。

先生が「吉野大作」という名前で音楽活動を始めたのは
1970年代初頭からで、これまで通算16枚のアルバムをリリースしてきた。
私が大学生だった頃、「吉野大作&プロスティチュート」のライヴを
観に行ったことがあるが、
前衛的なジャズとロックをミックスさせたような
アバン・ギャルドなスタイルの音楽をやっていて、
それは「オルタナティヴ・ロック」と呼ばれるものだった。
先生はその道の第一人者らしい。
「オルタナティヴ」の意味が私にはよくわからなかったので
先生に尋ねてみたら以下のように詳しく教えてくださった。

「直訳は、『変わるべき手段』『代替案』など、さまざまな意味がありそうですが、
『もうひとつの…』という解釈でよいかと思いますが…。
つまり『オルタナティヴ・ロック』とは、『メイン・ストリーム』とは
異なったもうひとつの路線を追求するロックということでしょうか。
例えば『オルタナティヴな医療』とは、一般的な西洋医学によるものではなく
民間療法・鍼灸・漢方などもうひとつの方法論を指すと考えればよいと思います。
それは文字通り『代替医療』とも言えますね。

プロスティチュートで表現しようとしていたサウンドや歌詞は、
TVの歌番組などでは決して存在し得ないような世界ですので、
まさしく奔流とはかけ離れた地点にある『もうひとつの』表現空間でありました。
それで、その世界が意味をなさないかと言えば決してそうではなく、
あたかも整体や鍼灸のごとく、野に根ざしながらしっかりと指示される
母体を有している点が興味をそそるところです。
すなわち無意味に思えるものこそ、実は意味をもっているという
逆説的なあり方のように思えます。」

・・・なるほど、そうだったのか。
あの時はよくわからなかったけど、こうして人生を経験すると
先生の言わんとすることがよくわかる。
先生がなぜインディーズにこだわってきたのか、
そしてカバーやコピーでなく、なぜオリジナル曲にこだわるのか
ようやくわかったような気がする。
先生は確固たる自分の世界を持っていて、
それを「オルタナティヴ」なものとして音楽で表現し続けてきたのである。

私が先生の音楽で一番好きなものは、何と言っても歌詞である。
内省的で繊細なフレーズの裏側に、先生の熱くも冷静なエモーションを
感じることができるからだ。
先生はミュージシャンであると同時に「詩人」でもある。

出会った翌年に聴かせてもらった
『年表』という曲は今でも私の心に残っている。
「俺は第二次世界大戦が終わって 6年たった頃生まれた
小学校に入った時 教室には とても大きな年表がはってあった・・・」
というバースで始まり、そこから自分の人生を見つめていくという内容の歌。

年表には功なり遂げた人物の名前や重要な出来事が記されていて、
ふつうはそこに書かれた史実のみに目がいく。
ところが先生は、むしろ行間に埋もれている多くの無名の人たちに
思いを馳せて、この歌を作った。
ご両親が歩んできた人生を考え、冷たい雨の中で火を焚きながら
自分や世界について仲間と語り合ったというくだりは
この時代に生を受けた人しか共有できない魂の経験だろう。

きっと先生は、少年時代、大人になることや将来に対して漠然とした
不安を抱いていたにちがいない。
そのことは、「そして年表の裏側で俺の死が見え隠れする」
という歌詞に表われている。
無数の尊い命を奪った「戦争」から、自分はたった6年しか経ってない時に
生まれたのだという事実は、先生の心に大きな波紋を投げかけたのだ。
この曲は先生の人生観の原点となりうる大切な歌だと思う。

最新のアルバム「ETERNAL RAIN/永遠の雨」(2005年)に綴られている曲は
前作のアルバム「チャイナ★イルージョン」(2001年)と同じく
悠久の時を刻む中国の原風景や思想をモチーフにして
作られているものが多い。
先生が最初に中国を旅したのは1989年(天安門事件の年)で、
それから何度か中国を訪れていると伺った。

アルバムに一曲だけ『あの日のチャイナ・タウン』という
「LOVE SONG」が入っていた。
これは私の個人的な見解だが、「LOVE SONG」にこそ
作り手の人間性が一番反映されると思っている。
どんな言葉を使って、どのように自分の愛を伝えるか・・・。
面と向かって「愛している」といとも簡単に言える人の
「LOVE SONG」はどこか刹那的で直接的な表現が多い。

でも先生が作る「LOVE SONG」にはプラトニックな要素が多く、
心の葛藤や優しさ、せつなさがにじみ出ている。
もしかしたら先生は「詩」の中でしか想いを打ち明けないのかもしれない。
でもそこで表現されている愛は純粋で永遠だと感じる。

12月10日、5年ぶりに先生とお会いしたが、
雰囲気が全く変わっていなかったのでホッとした。
「情念のフェスティバル」の第1回目は1976年11月で、
2日間に渡って開催されたらしい。
その当時のヨコハマ・ロックの状況は「ザ・ゴールデン・カップスのすべて」
(河出書房新社刊)という本に先生が一部執筆されているそうなので、
折を見て読んでみたいと思う。
2回目は2004年の夏で、鮎川誠&シーナが出演して先生と共演された。
4回目はいつになるのだろうか?今から楽しみだ。

先生にとって音楽はご家族と同じくらい大切なものだから、
これからもご自身の心象風景を歌にして、
それを表現し続けて欲しいと心から願っている。


         
<07・1・31>








「China Illusion」

































「ETERNAL RAIN」